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内向型人間の生きる道

内向型人間の生き方として考察した事を書いています。

枝雀とカフカと、ゲルマン的感性。

 

「あれ~ここに定期券が落ちてある。なんか住所も宛先も書いてないな。おかしいな。てゆうかなんでこれが定期券って分かったんやろ。」

この桂枝雀の落語の文言はおかしいと同時にぞっとする感じがある。枝雀という落語はこういう恐怖と笑いが混じり合った笑いを作ってきた。「夢たまご」という落語ではある男が夢たまご屋から夢たまごを買い、食べると夢たまご屋の主人の主観的な映像になるという恐ろしい感覚がある。

カフカはまさにその感覚の第一人者と呼べよう。有名な「変身」では主人公が虫になり家族から疎んじられてるという物語だが、この話はホラーでもありコメディでもある。

これはうる覚えであるが、カフカが読んでいた中国の民話にこんな話がある。大根の精かなにかが上半身がちょん切られ、下半身のまま生きている話である。これもホラーでありコメディでもある。

この記事でゲルマンと書いたのは、どうもゲルマン的な感性とアングロサクソン的感性は違うように思えるからだ。

ユーモア大国アングロサクソン人のユーモアの元は「茶化し」だと思う。モンティパイソンはまさにそうで概念を茶化し、意味を茶化し、権威を茶化す。

そこにはアングロサクソン的な「批評的な視点」を感じる。

一方で、ゲルマン的な感性とは「悪夢的な視点」だと思う。カフカカフカから影響を受けたアングロサクソン作家が違うのは前者は幻想と笑いを混ぜようとしたことであり後者はそのカフカの俗にいう「シュールとか不条理」に意味を加えようとしている部分だ(例えば、自己の存在意義とか都市における孤独とか管理化された社会とか)

そしてそのゲルマン的な感性、まるで終わらない迷路をさまよっているような感性には「グリム童話」であったりとか「ホフマン」であったりとかゲーテの「ファウスト」のようなドイツ語圏の怪奇・幻想の系譜が根底にあるのではないか。

同様に枝雀幻想小説・文学を好んだ。彼が夢かうつつかわからない物を作りたいといったのは彼もまた笑いと幻想を混ぜようとした落語家だったのではないか。

(ちなみに余談だが、DTの松本も恐怖と笑いを混ぜようとしているが少し失敗しているように感じる。)